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宮崎地方裁判所 平成3年(ワ)462号 判決

原告

師藤貞治

吉澤佳代子

安田真由美

師藤広典

右原告ら訴訟代理人弁護士

後藤好成

小笠豊

被告

甲野脳神経外科病院こと

甲野太郎

右被告訴訟代理人弁護士

小倉一之

主文

一  被告は原告師藤貞治に対しては金九一八万二六八八円、その余の原告らに対してはそれぞれ金三一八万七五六二円及びこれらに対する昭和六三年八月一六日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの、その余を被告の各負担とする。

四  この判決は原告ら勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

一  被告は、原告師藤貞治に対しては金一六九〇万円、その余の原告らに対してはそれぞれ金五六三万円及びこれらに対する昭和六三年八月一六日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言

第二  事案の概要

本件は、くも膜下出血の治療のため、被告が開設した甲野脳神経外科病院に入院中に死亡した師藤幸子(大正一五年二月二日生まれ、以下「幸子」という。)の相続人である原告らが提起した医療過誤損害賠償請求事件である。

一  争いのない事実並びに乙第一号証、原告貞治及び被告各本人尋問の結果によって認められる事実

1  幸子は、昭和六三年七月二二日午前九時ころ、頭痛、嘔吐が出現し、近所の内科医に往診して貰って降圧剤注射等の治療を受けた後、宮崎市郡医師会病院を紹介されて受診した結果、くも膜下出血と診断され、治療のため被告への紹介を受けて同日午後九時三〇分に緊急入院した。

2  翌二三日、被告は幸子の脳血管撮影を行い、左内頸動脈と眼動脈の分岐部にある動脈瘤の破裂によるくも膜下出血であるとの診断をした。この時点における幸子の症状は、頭痛、吐き気はあるものの、意識は清明であり、麻痺、痺れ等の神経失調症状はなかった。被告は、同日午後三時ころから、原告貞治、原告吉澤佳代子(幸子と原告貞治間の長女)、原告安田真由美(同二女)、江嶋喜代子(幸子の姉)、江嶋行光(江嶋喜代子の夫)に対して幸子の症状、今後の治療方針等について説明し、その結果、脳動脈瘤破裂の場合に通常行われる治療法であるクリッピング手術(開頭の上、動脈瘤柄部にクリップをかけて再出血を防止する手術法)ではなく、バイパス・頸動脈結紮術を行うことになった。この手術は、頭皮を栄養している外頸動脈の枝である浅側頭動脈を剥離し、これを頭蓋内の中大脳動脈の枝に接合し、バイパスを作って補助血流を確保した上、頸動脈を結紮して本来の血流を遮断し、動脈瘤内壁にかかる血圧を低下させて再出血を防止するものである。この手術を行っても、バイパス血流が逆流して動脈瘤部分を流れるが、その血圧は低く再出血の危険は減少する。このとき、被告は、手術はそのための準備期間等を考慮して二週間後くらいに実施する予定であったが、原告貞治らは、幸子の症状に変化が出れば直ちに手術してくれるものと考えていた。

3  その後、幸子に対しては、薬剤投与、血圧管理、安静維持等の保存療法が施されていた。同月二八日午前一〇時四五分、幸子は、突然昏睡状態になり瞳孔散大、呼吸困難となったものの意識はその後次第に改善した。原告貞治らは、幸子の病状の急激な悪化に驚き、被告に早期の手術を要請し、被告は、右要請をも勘案して三〇日にクリッピング手術を実施することとした。

4  同月三〇日、幸子に対するクリッピング手術が実施され、術中に動脈瘤からの再出血があったけれども、適切な処置がされ、手術は成功した。

5  同月三一日、脳血管撮影を行ったところ、左前大脳動脈、中大脳動脈に顕著な脳血管攣縮が確認された。翌八月一日、脳室に脊髄液が溜まって脳室が拡大したため、脳室ドレナージを行い、一時脳室は縮小したものの、次第に脳血管攣縮による脳梗塞が広がって脳ヘルニア状態が増強し、同月二日には意識は深昏睡状態となった。その後頭蓋骨を大きく切り取る外減圧術を行う等の治療を行い症状はやや改善した。しかし、八月一六日、皮下血腫による脳の圧迫症状が出現し、同日午後一一時三〇分、幸子は皮下血腫による脳ヘルニアが直接の原因で死亡した。

二  原告らの主張

1  説明義務違反

(一) 昭和六三年七月二三日、被告から原告貞治らに対してされた説明の内容は、次のようなものであった。被告は原告らに対し「奥さんのくも膜下出血の症状の程度は、五段階の中の二だ。視神経の近くに動脈瘤があって破れているようだ。クリッピング手術は、開頭して一センチメートル位のすきまから顕微鏡で見ながら動脈瘤にクリップをかけて再出血を防止するものだが、狭いところで、骨も一部削らないとクリップがかけられないかもしれない。骨を削るには歯科で使うような機械で削るが、手元がくるって血管を傷つけたりすると出血して死亡することもある危険な手術だ。又、動脈瘤が手術中に破れて出血すると患部が見えなくなり手術ができなくなるのであらかじめ頸動脈を摘出しておき、出血した場合はそれを結紮して出血を止めて手術をするが、止める時間は四分くらいが限度だ。それ以上止めると脳が死んでしまう。」などと、医学書を示しながら、クリッピング手術の危険性を強調した。原告貞治は、幸子の現在の状態はそれほど悪くないのに、かなり危険な手術だという説明だったため、「手術をしなければ治らないでしょうか。」といった趣旨の質問をしたところ、被告は「三パーセントくらいは、そのまま固まって治る場合がある。」と説明し、さらに「ほかに、頭蓋骨の外にある動脈を中に入れて破れている血管の先につなぐ手術がある。破れているところは、そのまま縛ってしまう。この手術は安全でクリッピング手術のように生命に対する危険はない。後遺症として頭痛や肩こりが起こるがそれも年数がたてば治る。」と説明した。原告貞治が「それはバイパス手術ですか。」と聞くと、被告は「そうだ。」と答えたため、原告らは、そのような安全な手術があるのならと思い、「その手術をして下さい。」と被告に頼んだ。被告は「では二、三日様子をみましょう。」と言って説明は終った。

(二) その後、幸子が頭痛を訴えるので、原告らが被告に対し、早く手術をしてほしいと頼んだところ、被告は「説明のときに言わなかったですかね。バイパス手術はすぐにはできないのです。二週間くらい待って下さい。」と言った。七月二八日に幸子の容体が悪化した際、原告貞治が被告に「早く手術をして下さい。」と言ったところ、被告は「それなら手術をしましょう。手術はやはりクリッピング手術の方がよいのですよ。」と言った。

(三) 七月二三日の説明とこれに対する原告らの対応、その後の手術をめぐる原告らと被告とのやりとりは以上のとおりであり、原告らが幸子に対する早期のクリッピング手術を拒否した事実はない。幸子の動脈瘤は、内頸動脈と眼動脈の分岐部にあり、それに対するクリッピング手術は困難ではあるけれども、そのような手技上の危険性を考慮しても、再出血や血管攣縮の発生の恐れを勘案するならば、早期のクリッピング手術が幸子に対する最善の方法であった。したがって、被告は、早期のクリッピング手術が最善の治療方法であり、そうしなければ、再出血や脳血管攣縮などのため、より危険な状態となることを原告貞治ら素人に分かるように説明すべき義務があるのに、これを怠り、クリッピング手術よりバイパス手術の方が安全で生命に危険を及ぼさないかのような誤った、少なくとも素人を誤解させる不十分な説明をした。そのため、原告貞治らは、クリッピング手術は危険であるが、バイパス手術であれば安全であると誤解し、被告に対してバイパス手術を行うよう依頼し、その結果、幸子は早期のクリッピング手術を受けることができず、死亡した。

(四) 説明の際、被告が、早期のクリッピング手術が最善の治療方法であり、幸子のような症状の患者に対し、早期のクリッピング手術を行えば、八〇パーセントから九〇パーセントの確率で社会復帰ができるほどに回復すること、そうしなければ、再出血や脳血管攣縮などのため、より危険な状態になること、を原告らに対して説明していれば、原告らは、当然に、被告が幸子に対して早期のクリッピング手術を行うことを承諾したのであり、幸子に対し、早期のクリッピング手術が実施されていれば、幸子は、右のとおりの高い確率で社会復帰ができるほどに回復していたはずであった。現実に、七月三〇日に行われたクリッピング手術については、手術自体は適切にされており、早期クリッピング手術が行われていれば、幸子が死亡することはなかった。したがって、被告の説明義務違反と幸子の死亡との間には相当因果関係がある。

2  損害

(一) 逸失利益 一五八〇万円

幸子は、死亡時六二歳の主婦であり、年収二六二万九一〇〇円(昭和六三年賃金センサス、女子学歴計、六〇歳ないし六四歳)、平均余命二二年の二分の一の期間を就労可能年数、生活費控除を三〇パーセントとして、ホフマン方式に基づき、死亡に伴う損害を計算すると、逸失利益は一五八〇万円となる。

(二) 慰藉料 一八〇〇万円

(三) 原告らは、幸子の被告に対する右損害賠償請求権を、幸子の死亡に伴って相続し、その相続分は、幸子の夫である原告貞治が二分の一(一六九〇万円)、幸子の子であるその余の原告らが各六分の一(五六三万円。万円未満切り捨て)となる。

(四) 葬儀費用 一二〇万円

(五) 弁護士費用 三八〇万円

本件訴訟において、原告貞治分は一九〇万円、その余の原告三名合計で一九〇万円

(六) 以上合計すると、原告貞治は一九一〇万円、その余の原告三名は各六五六万六六六六円の不法行為に基づく損害賠償請求権を有することになるが、右の各内金として、原告貞治は一六九〇万円、その余の原告らは各五六三万円及びこれらに対する幸子の死亡日以降の民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

三  被告の反論

1  被告は、七月二三日の説明の際、原告らに対し、書籍の該当部分を示しながら「動脈瘤の破裂によるくも膜下出血の場合、第一回目の破裂による死亡率が、大体一五パーセントから二五パーセント、ときには三〇パーセント前後である。二回目の破裂で四五パーセントから五五パーセントの方が亡くなる。奥さんの症状は、意識は清明で、重症度の低い状態であるため、再出血しやすい。脳血管攣縮の発生を考えると発症から三日以内の早期のクリッピング手術が適応となる。破裂を防ぐためには瘤のクリッピング手術が絶対に必要である。ただし、この手術は、術中破裂することもあり、一〇〇パーセント確実にできるとは限らない。その理由は、術者の技量とは無関係に術中に破裂する可能性があり、特に、本件のように瘤が大きく、内頸動脈と眼動脈との分岐部に生じた動脈瘤は、クリッピングが難しいためである。これらを了解して、早期のクリッピング手術をさせてほしい。」と説明した。これに対し、原告らは、危険性がある早期のクリッピング手術は困ると主張し、右手術を行うことを承諾しなかった。

やむを得ず、被告は、バイパス手術の内容を述べた上「この手術であれば、手術そのものはほぼ安全に行うことができるが、そのためには、手術の前に頸動脈圧迫テストを約七日間行う必要があり、その間に再出血や脳血管攣縮が発生した場合は危険である。」と説明したところ、原告らは、バイパス手術を選択した。

2  右のとおり、被告は原告らに対し、幸子の病状、手術の方法、内容、その危険性の程度等を主治医としてできる限り分かりやすく説明したのであり、これに対して、原告らが早期のクリッピング手術を拒否したのである。

被告は、七月二八日に幸子の症状が悪化した際の原告らとのやり取りを通じて、七月二三日にした説明の内容を原告らが十分に理解していなかったのではないかと疑い、七月二八日ころ、クリッピング手術に関する同様の説明を再度行い、今度はクリッピング手術を行うことについて原告らの承諾が得られたので、右手術を行ったものである。

第三  争点

一  手術方法等につき、昭和六三年七月二三日に被告によってされた説明は的確なものであったか

二  原告らの損害

第四  争点に対する当裁判所の判断

一  昭和六三年当時において判明していた脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血の病理機序、治療法、一般的予後(甲第二ないし第四号証、第一五、第三二、第三三号証、乙第二ないし第五号証、調査嘱託の結果、証人呉屋朝和の証言、被告本人尋問の結果)

1  くも膜下出血は人口一〇万人につき一〇人ないし二八人の頻度で発生すると報告されており、そのうち一〇パーセントから一五パーセントは医療機関に到着する前に死亡する。くも膜下出血のうち代表的なものは、脳動脈瘤の破裂によるものであり、破裂するまでは大部分が無症状であるが、一度破裂すると約五〇パーセントが死亡するか又は重篤な神経脱落症状を残す。

2  脳動脈瘤発生の原因は必ずしも明確でない。好発部位は脳底部の主幹動脈の分岐部であるが、最も多いのは内頸動脈瘤及び前大脳動脈瘤であり、この中でも前交通動脈瘤及び内頸動脈・後交通動脈分岐部の動脈瘤が特に多い。好発年齢としては、四〇歳から五〇歳に最も多いが、二〇歳代にもみられる。

3  脳動脈瘤破裂の原因は明らかではない。動脈瘤が破裂し、くも膜下出血が発症すると、急激に、極めて激しい頭痛に襲われる。悪心、嘔吐を伴うことが多く、けいれん、熱発も少なくない。発症時に意識が保たれたまま頭痛を訴えるもの、一時的に意識が失われ、覚醒するにしたがい頭痛を訴えるもの、昏睡のまま急速に死亡するものがある。くも膜下出血の診断は病歴聴取のみで明らかになることもあるが、CTスキャンによるくも膜下血腫の証明等により診断できる。脳動脈瘤の部位について確実に診断するには脳血管撮影が必要である。

4  くも膜下出血の臨床的重症度は、手術適応の決定や予後の判定に重要であるが、その際、最もよく用いられるのは、ハント・アンド・コスニクの分類から付帯事項を除外したものである(以下「グレード」とはハント・アンド・コスニクの分類によるものを指す。)。これによれば、未破裂動脈瘤はグレード〇、無症状か、最小限の頭痛及び軽度の項部硬直をみるものはグレード一、中等度から重篤な頭痛、項部硬直をみるが、脳神経麻痺以外の神経学的失調をみないものはグレード二、傾眠状態、錯乱状態等を示すものはグレード三、昏迷状態で、中等度から重篤な片麻痺があるものはグレード四、深昏睡状態で、瀕死の様相を示すものはグレード五とされる。被告は、幸子の入院時の症状に基づき、その程度をグレード二と判断していた。

5  脳動脈瘤の破裂後みられる頭蓋内の病態には、再出血、脳血管攣縮、水頭症の三大合併症がある。このうち、再出血は破裂脳動脈瘤の自然経過において最も危険な合併症であり、脳動脈瘤外科治療の最大の目的は再出血を防ぐことにある。再出血の頻度が最も高いのは初回出血後二四時間以内であり、発生率は約四パーセントである。二四時間後以降はほぼ一定した頻度に達し、二週目までは日に1.5パーセントくらいで、二週目までに一五パーセントから二五パーセントになる。再出血により死亡したり重篤な神経症状を残す率は四〇パーセント近くになる。

6  脳血管攣縮とは、脳動脈血管の異常な狭小化のことで、くも膜下出血に合併する遅発性脳虚血の原因と考えられる病態であり、破裂脳動脈瘤において生命予後に大きな影響を及ぼすのみならず、機能予後を決定する重要な因子となる。脳血管攣縮発生のメカニズムは十分解明されていないが、何らかの原因による脳動脈管の病的収縮と考えられており、動脈瘤の破裂によって血管外にもれた血液、特にヘモグロビンの代謝産物によって生じるともいわれている。脳血管攣縮の発生頻度については報告者によって異なるが、初回出血後三日以内には発生せず、一般に四日目から一五日目の間に発生のピークが見られる。脳血管攣縮の発生しやすい出血後七日目のころに脳血管攣縮に関連した臨床症状を呈するものが二〇パーセントから三〇パーセントにみられる。脳血管攣縮による症状は、軽度なものから重篤なものまで様々であるが、脳梗塞を生じ重篤な神経症状を残すものが約七パーセント、死亡するものが約七パーセント程度である。脳血管攣縮による虚血症状の治療は、再出血の予防とともに最も重要であり、循環血流量を輸血や輸液により増加させ、改善がなければ昇圧剤を用いる。しかし、血圧の上昇は再出血を誘発することとなるため、この治療手段をとるためには手術により破裂動脈瘤の手当がされていることが必要となる。脳血管拳縮のメカニズムが分かっていないため、脳血管攣縮自体を治療する手段はない。

7  脳動脈瘤の破裂後みられる頭蓋内の病態には、これらの合併症のほか、脳浮腫、頭蓋内圧亢進等があり、互いに影響し合って悪循環に陥ることも少なくない。

8  脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血の治療には、保存的療法と手術的療法とがある。手術的療法は、手術時期の観点から発症後三日以内に行う早期手術と、一〇日から二週間ほど待ち、急性症状が安定してから行う待機手術とに大別される。グレード一及び二の患者については、早期に出血源を断ち、できる限りくも膜下腔の血液を除去することが肝要となり、早期手術の適応がある。すなわち、クリッピング手術を行い、出血源を断った上で、数日後に起こる可能性のある血管攣縮に備えなければならない。血管攣縮の治療法としての血管の拡張、灌流血液量の増大などの処置は、破裂した動脈瘤が未処理のままであると、前述したとおり、再破裂を誘発する可能性が高く、行いにくくなる。この点に血管攣縮が生じない三日以内の早期手術の大きな目的がある。グレード四及び五は、特別の場合以外は手術適応がなく、保存的療法を行って待機しグレードの改善をみてから手術することになる。グレード三は相対的手術適応であり、明確な基準はない。

9  根治手術として理想的なものはクリッピング手術である。動脈瘤の柄部が大きく、クリップがかけられないときや動脈瘤が到達できない深さにある場合など、クリッピング手術が不可能な場合の手術法としては、動脈瘤をガーゼ片などで包むラッピング手術や生体接着剤で覆うコーティング手術などの動脈瘤壁の強化のための術式のほか、動脈瘤の中枢側(心臓側)と末梢側とを遮断して動脈瘤に血液が流れないようにするトラッピング術、動脈瘤への中枢側からの血流を遮断し、動脈瘤にかかる血圧を軽減する目的で行う頸動脈結紮術がある。後二者の術式は、末梢側にある脳への血流を遮断することになるため、これを補うために、バイパス術(浅側頭動脈と中大脳動脈との接合)を行うことが多い。被告は、当初、このバイパス・頸動脈結紮術を予定した。この手術は、破裂動脈瘤の近くに手を加えるものではないため、手術それ自体による危険は少ないものの、破裂動脈瘤への血液の流入がなくなるわけではなく、末梢側から血液が逆流することがあるため、再出血の危険は避けられず、かつ、閉塞する頸動脈に比較して血液を供給するバイパス回路となる浅側頭動脈及び中大脳動脈の直径は著しく細く、血流量に大きな差異があるため、バイパス術を行ったとしても、脳に対して障害を起こさない十分な血液が供給されるかどうか分からないという危険もあり、十分な血液供給がされなければ、死亡や半身麻痺といった結果も考えられる。

10  各グレードの患者の手術適応は前述したとおりであるが、統計がとられた大学病院等の主要施設においては、グレード一及び二の場合、初回くも膜下出血の後、早期に手術を行えば、八〇ないし九〇パーセントの者が社会復帰できるまでに回復している。被告自身の印象では、グレード一又は二で、早期クリッピング手術をした患者のうち、死亡又は植物状態となった者は、全体の一〇パーセント程度である。手術を約二週間待機し、待機中に再出血や重篤な血管攣縮が生じなかった場合は、安定した状態で手術を行うことができるため、手術成績は良好である。しかし、待機中に再出血や重篤な血管攣縮が生じる可能性は低くない。グレード一又は二の患者については、昭和六三年当時においても、各医療機関において、初回出血の後三日以内の早期手術の趨勢にあったため、幸子のようなグレード一又は二の患者が待機中に再出血や血管攣縮によって死亡し或は重篤な神経症状を残す確率は統計的には不明であるけれども、前期5及び6で述べた全患者を母集団とした場合の割合に比較して軽度となるであろうことは想像できる。

11  保存的療法は、再出血を予防しながら、脳循環や頭蓋内圧の管理により症状の改善を待つもので、急性期において手術ができない場合に、手術が可能な安定した状態になるのを待ち、また術後の症状の改善をはかる目的でなされるのが一般であり、手術を伴わない保存的療法は例外である。再出血の予防には安静が最も重要であり、適時鎮痛剤や鎮静剤を用い、高血圧に対しては適度に降圧する。

12  脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血の場合、保存的療法による死亡率は三〇ないし六〇パーセントである。初回破裂後二四時間以内に最も死亡率が高く、以後死亡率は漸減するが、七ないし八日目に再び死亡率のピークが出現する。全症例のほぼ一〇パーセントはきわめて激症で、破裂後早期に高度な脳内出血や脳室内出血などによる急性頭蓋内圧亢進をきたし、大部分は二四時間以内に死亡する。四五パーセントでは死亡率はこれより低く、死亡時期も遅くなり、初回破裂の後平均第二週に多い。残りの四五パーセントは比較的予後が良好である。このうち、第二週に起こる死亡は主として再出血又は脳血管攣縮によるものと考えられる。

二  昭和六三年七月二三日、脳血管撮影の結果、被告によって動脈瘤破裂によるくも膜下出血との診断がされた後、当時の臨床医学上の知識からして、幸子に対してはいかなる治療がされるべきであったか

右の時点における幸子の症状は、第二・一において認定したとおりであり、その程度は、被告も診断しているとおり、グレード二に該当するというべきである。

したがって、幸子の治療方法としてまず考慮されるべきものはクリッピング手術であるところ、当時の幸子の症状には、これを否定すべき事情は存しなかったのであるから、当時の臨床的医療水準からすると、客観的にみた場合、幸子の治療方法として選択されるべきものは、クリッピング手術であり、この点は被告も争っていないところである。なお、証人呉屋朝和の証言及び被告本人尋問の結果によれば、本件の場合、動脈瘤が左内頸動脈と眼動脈の分岐部に位置しており、クリッピング手術を行うことは技術的に難しい点があることが認められる。しかし、右各証拠によれば、そのために早期のクリッピング手術が行えないという事例ではないことも又認めることができ、現に、本件においても、被告は七月三〇日クリッピング手術を実施し、手術自体は成功している。

三  昭和六三年七月二三日に被告がした説明内容とこれに対する原告貞治らの対応

1  甲第一二、第一三号証、第一七ないし第一九号証、第二五号証、原告貞治、被告各本人尋問の結果によれば、次のとおり認めることができる。

昭和六三年七月二三日午後三時ころ、甲野脳神経外科病院の診察室において、被告から原告貞治、原告吉澤佳代子、原告安田真由美、亡幸子の姉である江嶋喜代子、その夫である江嶋行光の五名に対して幸子の当時の病状と治療についての説明が行われたが、その内容は次のようなものであった。

(一) 被告は脳血管撮影をしたレントゲン写真や医学書を示しながら、左内頸動脈と眼動脈の分岐部に動脈瘤ができており、それが破裂していること、治療行為をしないまま時が経過すると、動脈瘤が再破裂したり、出血した血液が脳動脈の周辺に付着することが原因で動脈が細くなって(血管攣縮)脳梗塞を生じ、その結果死亡に至る可能性が高いこと、治療としては、動脈瘤の根元をクリップで止めるクリッピング手術をしなければならず、それが最も適切な対処法であること、幸子の場合は、動脈瘤が手術困難な場所に発生しており、手術中に動脈瘤が再破裂する可能性があり、その場合に処理不能となる恐れもあって、手術自体の成功を保証することはできないことを説明した。

(二) 原告貞治は、被告の説明を聞き、クリッピング手術が危険な手術であると感じ、また、その時点においては、幸子は頭痛と吐き気を訴えている程度の症状であったため、このまま手術をしないで治すことはできないかとの趣旨の質問をしたところ、被告は三パーセントくらいの確率で自然治癒する旨を答えた。原告貞治らが考え込んでいると、被告が、バイパス・頸動脈結紮術という手術方法があること、この手術であれば手術それ自体に伴う危険はないことを述べたところ、説明の場に同席していた幸子の姉や原告吉澤らがバイパス・頸動脈結紮術を行えば幸子の治療が安全にでき回復するものと考えて口々に同手術を行うよう求めた。原告貞治は、そのような安全な手術があるのであれば、危険なクリッピング手術よりも先になぜ説明しなかったのかとの疑問を持ったけれども、他の家族がバイパス・頸動脈結紮術をすることを求めていたこともあり、これ以上被告に質問するのもどうかと考えて自らもバイパス・頸動脈結紮術を行うよう求めた。

(三) 被告は、幸子の治療法としては、クリッピング手術が最適であり、多少の危険はあってもこれを行うべきであると考えており被告が過去に経験した同様の事例では、患者側は例外なくクリッピング手術を希望したにもかかわらず、これを実施することを渋るような原告らの態度を不審に思ったが、原告貞治らに質問をしたり、クリッピング手術とバイパス・頸動脈結紮術を比較し、幸子についてはクリッピング手術を行うのが最善の方法であると考えられる理由を説明することは全くないままクリッピング手術を希望しない以上仕方がないことであると考え、原告らが求めるバイパス・頸動脈結紮術を行うこととした。

(四) 被告は、説明の席で、バイパス・頸動脈結紮術を行うためには暫く訓練することが必要であり、かつ、手術の実施のためには幸子の状態が安定している必要があること、その間に再出血が生じた場合は生命が危ないこと、を原告貞治らに告知している。

(五) 被告は、自己の判断と異なる選択をした原告らに対し、重ねてクリッピング手術の適応であることを説明しなかったのであるが、被告がそのような対応をした理由は、医師が説得し、指導すれば、患者側に恐怖を与え、いやでも医師のいうままにならざるを得ず、それは適当でないと考えていたためである。

2  被告は、説明の際、早期のクリッピング手術の承諾を求めたところ、原告貞治が手術で状態が悪くなるのは困るとして、これを拒否したと供述している。しかし、くも膜下出血が生命に危険のある重篤な疾患であることは一般に知られており、原告貞治もそのことを十分に認識していた(原告貞治本人尋問の結果)のであるから、そのような患者の家族が、治療のための手術が危険を伴うということだけの理由でそれを拒否するという事態は、特段の事情のない限り考え難く、この点に関する被告本人の供述は採用できない。次に被告本人の供述中には、バイパス・頸動脈結紮術について原告貞治らに述べた際に、二週間の待機期間を経ることが必要であり、待機している間に半数程度の患者は再出血や脳血管攣縮のため死亡することを説明したとする部分もあるが、この点に関する被告の供述はあいまいで一貫しない上、そのような説明をしたのなら、原告貞治らが右手術を承諾するとは考え難く、この点の被告の供述も採用できない。

四 説明義務違反の有無

1 医師は、医療の専門家として、患者の拒否等の特段の事情がある場合を除き、臨床的医療水準に従い、自己が最善と考える医療を行うべき義務がある。したがって、ある患者に対する治療法として第一と第二の複数の方法があるが、医療の実践の現場においては通常第一の方法が採用されており、患者の回復可能性の観点からしても第一の方法が優れ、医療現場における一般的評価も同様である場合に、当該医師自身も当該患者の治療法としては第一の方法が最善であると考えたならば、その治療法を行うことにつき、患者側が直ちに賛成しなかったとしても、明確に拒否したのでない限り、診療行為の内容として、第一と第二の方法の利害得失を比較対照して具体的に説明し、患者側が的確な判断を行うことができるようにする法的義務があるというべきである。

2 これを本件についてみるのに、動脈瘤破裂によるくも膜下出血患者の治療法につき、昭和六三年時点における臨床医療の実践の場で確立していた理論は、第四・一において述べたとおり、グレード一又は二の患者に対しては早期にクリッピング手術を行うべしというものであり、このことについては、少なくともわが国においては異論のない状況にあって、バイパス・頸動脈結紮術は、クリッピング手術が何らかの事情によって実施できない場合の補助的治療法として位置づけられていた。そして、第四・二において述べたとおり、幸子の症状からするならば、クリッピング手術が行われるべきであり、被告もそのように考えていたのであるから、被告の説明に対して、原告貞治らがクリッピング手術の実施を躊躇したとしても、明確な拒否をしていない以上、被告としては各手術法の利害得失を具体的に説明し、幸子の治療法としては、クリッピング手術がバイパス・頸動脈結紮術よりも優れていると考える理由を示す法的義務があるというべきである。本件において、被告は二週間程度待機した後にバイパス・頸動脈結紮術を行う予定であったのであるが、その間に相当高度な確率で再出血や血管攣縮が生じ(再出血が一五ないし二五パーセント、血管攣縮が二〇ないし三〇パーセント)、再出血が生じた場合はその四〇パーセント程度が、血管攣縮が生じた場合はその一四パーセント程度が、いずれも死亡又は重篤な神経症状を残すのであり、又、原告貞治らがバイパス・頸動脈結紮術を選択した七月二三日の時点においては幸子にその適応があるかどうかは全く不明である(仮に適応を考慮することなく手術した場合の予後は、死亡、半身麻痺から全快までの幅がある)ことからすると、原告貞治らの選択は医学的にみた場合著しく不合理なものであるということができる。そして、そのような選択であっても、原告貞治らがクリッピング手術を拒否する具体的な理由を述べるなどしており、両手術の意味するところを十分に理解していることが明らかであれば格別、単に躊躇しているにすぎない場合には(仮に被告が主張するとおり、幸子が手術によって死亡するのは困ると原告貞治らが主張したとしても、それだけの理由であるならば)、被告は前述のとおりの説明をすべきである。けだし、クリッピング手術、バイパス・頸動脈結紮術とも、全くの素人がその利害得失を判断することは困難な治療法であり、突然の不幸に動転しているであろう患者、家族がこれを短時間の説明で十分に理解することは期待し難いのが通常であろうからである。被告は、そのような説明をすれば、患者側の意思を拘束することとなって妥当でないと考え、本件においてこれを行わなかったのであるが、そのような対応は、専門家としての医師の職責に照らして不十分なものであり肯定することはできない。このように解しても、説明義務は患者側で明確な拒否回答がない場合に限り肯定されるものであり、拒否している患者を説得すべき法的義務まで認めるものではないから、医師に困難を強いる結果となるものではない。

よって、本件においては、被告に診療行為としての説明義務違反があることになる。

五 被告の説明義務違反と幸子の死亡との因果関係

本件においては、被告による説明義務が尽くされていたならば、原告貞治らが早期クリッピング手術を行うことを拒否したとは考え難い。又、第四・一・10において認定した事実からすれば、被告によって早期クリッピング手術がされていれば、幸子は、約八〇パーセントの確率で他人の介助なく生活できるまでに回復し、死亡或いは植物状態となる確率は一〇パーセント程度であったと認めることができる。幸子の動脈瘤は、内頸動脈と眼動脈との分岐部に発生したもので、クリッピング手術を行うのは比較的困難な部類に属する(証人呉屋朝和)。しかし、被告は、そのことを理由として幸子のクリッピング手術を躊躇ったことはなく(被告本人)、困難さはさほど高度なものではないと認められる。したがって、手術の困難性を根拠として右回復可能性の確率を修正すべき必要はない。そうすると、被告の説明義務違反と幸子の死亡との間には相当因果関係を肯定することができる。

六  幸子の死亡による損害

1  逸失利益  一三五五万〇五三九円

幸子は、死亡当時六二歳の主婦であり家事労働に従事していたものであるから(原告貞治本人尋問の結果、弁論の全趣旨)、当時の同年齢の女子労働者の平均賃金と同額の収入を七三歳まで(昭和六三年における平均余命の二分の一)得ることができたものと推定できる。そこで、基礎収入を昭和六三年度における産業計、企業規模計、学歴計の女子労働者の六〇歳から六四歳までの平均賃金、生活費控除を四〇パーセントとして、ホフマン方式に基づいて逸失利益を計算すると一三五五万〇五三九円となる。

2629100×0.6×8.5901=13550539

2  慰謝料  一〇〇〇万円

3  葬儀費用   八〇万円

八〇万円の葬儀費用を要し、原告らはこれを各二〇万円宛て負担したと認める(弁論の全趣旨)。

七  被告の説明義務違反に起因する損害

幸子と同程度のグレードの動脈瘤破裂によるくも膜下出血患者について、早期のクリッピング手術が行われた場合であっても、大学病院等の主要施設において一〇ないし二〇パーセントの患者が死亡又は社会復帰できない程度の後遺障害を残していること、幸子の動脈瘤はクリッピング手術をするには比較的困難な部位に発生していたこと、等の事情を勘案すると、幸子の死亡によって生じた損害の全てを被告の説明義務違反に起因する損害とするのは妥当でなく、被告の説明義務違反に起因する損害として被告が原告貞治らに対して損害賠償義務を負うのは幸子の死亡によって発生した損害の七〇パーセントとすべきである。

八  弁護士費用 原告貞治 八〇万円

その余の原告 各三〇万円

右六、七の結果、原告貞治の損害額は八三八万二六八八円(〔六1、2の合計額の2分の1+葬儀費用20万円〕×0.7)、他の原告らのそれは各二八八万七五六二円(〔六1、2の合計額の6分の1+葬儀費用20万円〕×0.7)となるところ、右各金額、本件訴訟の難易度等を考慮して、被告の説明義務違反と相当因果関係のある損害として被告が負担すべき弁護士費用額は、原告貞治につき八〇万円、その他の原告らにつき各三〇万円と認めるのが相当である。

第五  結論

以上のとおり、被告は、いずれも不法行為に基づく損害賠償として、原告貞治に対しては九一八万二六八八円、その余の原告らに対しては各三一八万七五六二円及びこれらに対する幸子の死亡時である昭和六三年八月一六日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による金員の支払義務があることになる。

よって、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官加藤誠 裁判官黒野功久 裁判官西田時弘は海外出張中のため署名押印できない。裁判長裁判官加藤誠)

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